皆さんこんにちは、アンドリューです。
緊急事態宣言が解除されましたね。
ここから日常に戻ればいいですけど
自粛期間はまだ解除されていないので
まだしばらくは自宅中心の
生活になりそうですね(。-_-。)
今週のお題
さて、今週のお題は「遠くへ行きたい」です。
今週は「遠くへ行きたい」をテーマに、はてなブロガーの皆さんのエントリーを募集します。「旅行の写真を引っ張り出してみる」「いつか行きたい場所」「一人旅の思い出」など、あなたの行きたいところについてブログを書いてみませんか? ご応募をお待ちしております。
自粛期間ですので家に引きこもってる時間が多く
遠くに出かけたい欲が溜まっている
ということだと思いますが、
僕は根っからのインドア派なので、
少し違う方面の視点で
「遠くに行きたい」について
書いていこうと思います。
遠くといえば
アウトドア派の方なら遠くと言えば
ハワイやグアムなどの海外や
山や海などを想像すると思いますが、
そもそもインドア派は
家から出たくないので
行きたいと思ったことが
ある遠い場所と言えば
あの世です(!?)
僕に限った話ではないと思いますが、
「なぜ生きているんだろうか?」
ということをよく考えます。
これは別に死にたい訳ではなく、
僕は理系の脳みそをしているので
全てのことには理由があると考えます。
そうした時に人生の中で
「死」という選択肢に直面したときに
自分が現在進行形で生きている理由について
考えてしまうものです。
「人はなぜ生きるのか?」という疑問は
とても哲学的な問題ですが、
今回はそれについて
少し考えていきます。
※この先「死」についての考察になりますので
苦手な方はブラウザバック推奨です。
ゲーム脳で見る人生
先ほど僕は理系脳だといいましたが、
同時にゲーム脳でもあるので
よく物事をゲームに例えて
話をしていまいます。
(でも大体ゲームで例えると引かれるので注意^^;)
人生をゲームに例えられるかどうかは
置いといて、
仮にRPGなどのゲームが
人生の縮図として例えられるなら
ゲームには始まり(オープニング)と
終わり(エンディング)があり、
人生にもまた、始まり(誕生)と
終わり(死去)があります。
そうした時にここでは
人生=ゲームと仮定していますので
人生の誕生がオープニングで
死去がエンディングと
言い換えることができます。
これを発展させていくと
「なぜ生きているのか?」の答えとして
生きる→ゲームをするに言い換えると
「なぜゲームをしているのか?」
という疑問になると思います。
それの回答としては
「楽しいから」や「したいからする」
というものがありますが、
その中に「エンディングを見るため」
という回答もあります。
それぞれを「なぜ生きているのか?」
という疑問に対して言い換えると
「楽しいから」→「人生が楽しいから」
「やりたいから」→「生きたいから生きる」
「エンディングを見るため」→「死ぬために生きている」
という風になります。
僕がこの中で一番しっくりくるのは
「死ぬために生きている」でしょうか。
「楽しいから」というのは
結果的な感想であるので、
現在進行形で進んでいる物事が
必ずしも楽しい方向に行くとは限りませんし、
では逆説的に「楽しくないと生きないのか?」
という話になると違うと感じます。
生きるという行為で「楽しい」などの
ポジティブな原動力は
ないことはないですが、
人生が楽しくない人や
人生が楽しいかどうか分からない人も
世の中にはたくさんいますので、
それを反例として
生きる理由として「楽しいから」は
不適合と考えます。
ただ「死ぬために生きる」は
どのような心理状態の人でも
当てはまるような気がしますので、
合ってるとは言い切れませんが
間違ってるとも言えない感じがします。
「死」と「生」の考え方
よく「死」の対義語として
「生」が挙げられます。
しかしよく勘違いするのが
「死」の反対が「生きる」ということです。
世界一受けたい授業「死の壁」で
養老先生が述べている通り
本来、「死」というのは
「生」というものの一部である。
ということです。
なので正しい見解としては
「生きる」という大きなくくりの中に
始まりと終わりを区分し
始まりが「生まれる」終わりが「死ぬ」
ということだと思います。
つまりは「生きる」の反対が
「死ぬ」ということではない。
ということですね。
これは例えば人生の中で
「楽しい」を糧に生きてきた人が
その「楽しさ」を失って
「楽しい」→「生きる」という考えが
前者が反転しますので
「楽しくない」→「生きない」という考えになり
死を考えることがあると思います。
ただ、先ほども言った通り
「生きる」は「死」の対義語ではないため
「生きない」=「死」には
本来ならないはずなのです。
僕が取る「死」の選択
※ここからは僕の話になります。
この考え方は絶対ではないので悪しからず
人生には様々な選択肢がありますので
20年ちょっとくらいしか生きていない
僕が言うと重みに欠けますが、
寿命はあるけれど自らの選択肢の上で
「死」を選ぶというのは(つまり自殺)
ゲームを途中で放棄しているのと
同じように感じます。
ゲーム脳で見る人生で書いたことは
「死」=エンディングである。
と見ることができますが、
エンディングはゲームによっては複数あり
BAD ENDやNORMAL END、
GOOD ENDやTRUE ENDなどがあります。
昔僕は、「死」=エンディングと
考えていたので、
死ぬことによりエンディングを
見るタイミングを少し早く出来る。
なんて考えてた時もありましたが、
実際はそうではなく
ゲームの終わりには
エンディングの他に
「放棄」という選択肢もあります。
例えばRPGなんかで
途中まで進めたけど
飽きたのでやーめた。
なんてことはないでしょうか。
これはエンディングではないですが、
ゲームの世界が人生の縮図として考えると
「放棄」という行為は
ゲーム世界の終わりの一つとして
考えることができます。
つまり、自ら死を選んだ人は
エンディングが見れない。
ということですね。
だから何。
って感じですけど、
「エンディングのためにゲームをやっている人」
にとっては由々しき問題で
BAD ENDやNORMAL END、
GOOD ENDやTRUE ENDはどれも
エンディングではありますが、
「放棄」をするとそのどれも見れなくなります。
これは「エンディングを見るためにゲームをする」
人にとっては本末転倒も甚だしいことなのです。
死を選択せざる終えなかった人に対しては
僕からは何も言えることはないですが、
「死」を一つの選択肢としている人は
(ちょい前の僕)
この考え方から見れば
中途半端 という感じになるのでしょうか。
ここで仮の結を上げるとするならば
死ぬかどうか悩むんだったら
とりま生きとけ。
ってことですね。
僕も精進します。
締め
死というのはどの時代でも人に
恐怖を与えますが、
恐怖は無知から来るものです。
なので、我々が生きている限り
死に怯えないといけないのかもしれません。
ただ、全てを知ることはできなくても
考えることは出来ます。
ぜひ生きている中で
「死」を考えるときの参考にしてくださいb
という感じで今回は
「遠くに行きたい」についてまとめました!
見返して思ったんですけど、
これワンチャン荒れそうな気がしますね、、。
ただ、一つ言いたいのは
僕は死んだ方がどうこうという話ではなく
生きる人にとっての「死」という考えを話した
ということです。
死は必ず来るものなので
自分の死については今後も考えて行くと思います。
という感じで今回はこの辺で!
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